教えることは教えられること
本文は京大土木工学科同窓会、京土会会報1998年に掲載されたものに補筆した。
昭和41年4月以来,名古屋大学関西大学で教育と研究に携わってきたが,41年間の教育経験の中で強く感じていることを述べたい。
学生にある教育科目(私の場合は交通工学と土木計画学であるが)を教えるためには,まずその教科目の歴史,対象とする社会現象の実態,基礎理論,応用例などを調べ,理解する必要がある。たいてい講義の前日多くは前夜に,教科書や関連論文などの資料によって準備をするのだが,この四十年以上くり返していることの中で納得のいかないことを発見し,参考書や辞典などによって調べることがよくある。このため,基本的参考資料は,大学と自宅の両方に備えておく必要がある。そして,講義に対する学生の関心をより強めるために,なぜこの講義を教える必要があるのか,講義内容は実際の問題にどのように使われ,役立つのかといったことを考えるので,講義内容の理解が当然深まることになる。それにもかかわらず,講義中に学生から質問を受け(最近の学生はほとんど質問しないが),自分が考えていなかった新しい視点を教えられることがある。このように,他人に教えることは,自分がその内容を教えられていることであるといえる。そして,教えることが最も深く理解することになることを体験している。
次の例は,中国南京市の交通計画策定の指導をするための顧問を勤めた際のことである。1回に1週間滞在し,交通計画策定作業の報告を聞き,その評価と以後の作業の方針,都市交通体系のあり方などについて討議を行うのと,依頼されたテーマの講演を行うのが主な職務内容である。この場合は,6,7人の専門家と交通計画について討議する形であるが,ほとんどが私に対する専門的質問であるので,私としては口頭試問を受けている感じであった。このときは,都市交通計画,都市計画から新幹線鉄道計画にわたって,その財源,交通需要予測,施設設計方針から運営方針などに関する質問がなされるので,とうていすべてに即答することはできない。その場で答えられない質問は,帰国後調査して回答を郵送することになる。
この職務の中での質問の1つに,都市内の街路密度はどの程度にするのが望ましいかという問いがあった。これに対する答は簡単には出せないことを断った上で,日本で採用されている土地利用別の標準的密度を紹介したところ,それはどのようにして決めたのかと尋ねられた。これは経験的に得られたもので,わが国の現在まで残っている最古の都市計画は京都で,その街路構成の基本は中国の唐の都長安のものを輸入したと思うので,その基は中国からきていると考えられると言うと,彼らは半信半疑の顔をした。
帰国後,資料に当たって調べてみると,京都の街路構成は中国・長安(西安)のものが平城京の計画を経て伝えられたと考えてよいことが分かった。この場合は,約1300年前に中国人の祖先が日本人に教えた都市計画の技術が,1300年後に日本から中国へ逆に教えられることになったわけである。同時にこれは,日本の街路密度の決め方について本来どのようにすればよいのかを真剣に考えてみる必要があることに気付かされた貴重な体験でもあった。
まさに,教えることは教えられることであることを痛感した。これらの経験を通して,教える際に多くの質問が出され,多くのことを教えられるような教育の場が教師,学生双方に最も満足を与えるものではないだろうかと考えている。また,教えた学生が将来大成され,逆に多くのことを教えてくれるようになることを期待している。
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